徒然なる、谺の戯言日記。
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04 移り変わるも、それが日常
祖父が倒れてから、4ヶ月が経った。
今では会社も落ち着いてるし、斎賀の家も落ち着きを取り戻している。
先日、祖父が退院して、家に戻った。
すっかり日常通り―――――とは、流石にいかないけれど、それでも、みんなに笑顔が戻ったと思う。
私は、というと。
「松波さん、痩せた?」
何度目かわからない質問を聞いた。
元々、ガリガリとは言わないけれど、全体的に細長い私は、よく言えばスレンダー。悪く言えば幼児体型に近いものがある。
出るトコ出てないだけなんだけど。
質問の主な金窪さんは、営業さんの紅一点。物凄い美人じゃないけれど、35歳とは思えない可愛い人。
見た目も小さくて可愛いいし、実際年齢よりは若干若く見られたりするけど、雰囲気もほんわかしてるせいだと思う。
仕事に対しては鬼だけども。
そんな可愛い顔が、苦笑して私を見ている。
そういえば、直接間近で顔を合わせるのって久しぶりな気がする。
「やつれた、と言って下さい」
「……大変そうだもんね」
溜息がちの私に返ったのは、酷く同情心に満ちた同意だった。
無理もない。
と、いうか、アレを見て、そう思わない人間がいたら、私は殴りたい。
むしろ変わって欲しい。
……変われるものなら。
「でもね、あたしは人事だから、だけど。松浪さんには悪いけど、面白いと思うよ?」
「私も、遠巻きに見ればそれは思いますけれど。直接被害を被るので、勘弁して頂きたいです」
「そこは認めてるんだ。そかそか…。よく辞退しなかったね? エライエライ」
「流石に、益永さんから引継ぎをしたばかりなのに、退職する訳にもいかないでしょうから」
「……そこまでなの?」
「はい」
真顔で頷いた私に、金窪さんは意外そうなものを見る顔をしてみせる。
確かに、私がはっきりきっぱりと“誰か”を毛嫌いするってないから、珍しいのかもしれないけど。
仕方ないじゃない、唯一の例外なんだから。
「そかそか、それじゃ、やつれてもしょうがないね。ナイスダイエット法を編み出したんなら教えてもらおうと思ったんだけど。後半年もしたら夏が来るしね」
「……好きで体重減らしたのと違いますよ。第一、増やさないといけないのに」
「細くて綺麗な手足なんだからいいじゃない。羨ましいよー色白だし、肌綺麗だもんね」
「代謝がいいですから、そこは。…でも、やはり」
「…男と間違えられてナンパされるのが嫌なのね」
「嫌ですね」
「だから髪、伸ばしたんだ?」
「そうです。でも、最近は長髪の男性も多いので、数が減ったという所ですけれどね」
「あはは、しょーがないね。松浪さん、顔イイもん」
「そうですか?」
「うん。身長あるし、すらーっとしてて綺麗だよ。モデルさんとか、出来たんじゃない?」
「……足りない部分があるかと」
「そんな事ないって。まぁね、だからって訳じゃないけど、社長も心配なんじゃない?」
「それはありません」
「即答なの?」
何が可笑しいのか、金窪さんは大笑いをしてる。
心配する事はあっても、される事はない筈なんだけど。
第一、そんな愁傷な心がけがあったら、あれだけの厄介事を私に持ってくる訳ないし。
「松浪さんの事だから健康には気を付けてるだろうし、体調不良で貧血起こしたりはしないだろうから。別に心配はしないけど、でも、気を付けてね?」
「はい、有り難うございます。…金窪さんは、これから外ですか?」
此処は、会社の地下。
朝からこんな所で金窪さんに会うのは珍しい。
何しろ、朝から営業先へ直行だし、会社へ戻ってきても工場へ足を運んでまた外出、夜も遅い時間になってから事務所へ戻ってきて書類整理をしているらしい。仕事熱心と言えばそうだけど、その可愛らしい外見からは想像も付かないくらいパワフルな行動力。
「そう。こっちの作業状態がどんなかなって。……前社長の、最後の願いっていうか夢? だったでしょ。何とか完成させてあげたいんだけどね」
「体感RPGですか」
溜息。
正直、今の状況でそれの開発に気合いを入れて進めるのは、世情を見て頷けない部分がある。
ヴァーチャルリアリティを追求した、体感ゲーム。
コントローラー等を使わずに操作し、視覚、聴覚、思考を元に、ゲームの世界の住人に、実際自分がなっているかのような錯覚を起こさせるモノ。
昨年、他社で発売されたのが、そのジャンルの第一弾と呼べる代物だった。
それは、シュミレーションRPG、所謂、育成ゲームだったのだけれど。
そのリアルさに発売前から評判も高くて、当時は品切れ続出の店舗が目立ったほど。
でも。
それも、1週間も経たないうちに、波が引いて行くように、好評から酷評へと変わった。
理由は簡単だ。
リアル過ぎた事。実際、自分の身に起きた事のように、体感出来てしまっていた事。
現実逃避を促進、とかなら、まだ、その影響も少なかったんだろうけど。
ゲームと現実の区別が付きにくくなるとかは前々から不安は持たれてたけど、実際それが激しく出てて。育成ゲームだったのがいけなかったのかもしれないけど。
更に、ゲーム内で体験した事がそのまま躰にまで影響を及ぼしてしまったり。
ようは、入院患者が出る騒ぎになってしまった、と。
そのため、幾つかの会社では、開発を見送った所もあったとか。
「そう。やっぱりね、躰への影響っていうのが一番ネックなんだけど……、松波さん、この話題、あまり駄目?」
「正直な事を言えば、筆頭に上げるべきではないというが私の感想ですけれどね」
「難しい問題山積みだから?」
「そうです」
「でも、これって夢っていうか、子供心に一度は憧れた事あるんじゃないの? ヒーローとか、ヒロインとか」
「私、そういうのなかった子供ですから」
肩を竦めた。
可愛くない子供だったかもしれないけれど、私は、真面目に好きじゃない。
存在自体が“悪”である、完全懲悪物が、嫌いなだけなんだけど。
スーパーヒーローなんて、ご都合主義の塊だし。
悪役がいなかったら、完全に持て余した存在になるくせに、正義を振り翳してるのが嫌。
誰にでも、その人それぞれに正義はあるものだし。
第一、悪いヤツって言ったって、そういった物に登場するのは、往々にして生き延びるためにそうする必要があったからだ。
そんな世間一般から見て、ひねくれた物の見方をする子供は少なかっただろうけど。
「そうなんだ。お姫様とかに憧れたりは?」
「ないですね。夢みがちな子供って普通かもしれませんけど、私は昔から現実主義だったみたいですよ」
「そっかぁ、でも、なんだかそれって、松浪さんらしいね」
「そう言って貰えると、嬉しいような、哀しいような」
「褒めてるんだよ。松浪さんって、誰とでも解り合える訳じゃないって、解ってても、そうする努力をするコだからね」
自分事のように嬉しそうな顔で笑う金窪さんに、私は肩を竦めて返す。
確かに、それはそうなんだけど。
でも、言っても解って貰えない、というか通じない時は力技だからちょっと複雑だ。
それでも先に手を出す事はないけど。
一部の例外を除いて。
「さてと、それじゃ行って来ますかっ! 今日も一日頑張るぞーっ!!」
両手を振り上げてガッツポーズで気合い十分。
……本当に可愛いのに、どうしてこういう所は少年っぽぃというか、男の人みたいなんだろう。
不思議だ。
尤も、だからこそ、この会社で、しかも営業なんて務まってるんだろうけど。
流石ゲーマー。て、それは関係ないか。
「行ってらっしゃい。気を付けて下さいね」
「はーい。…松浪さんも、頑張ってね。社長の事とか」
「…はい」
脱力して答えた私に、金窪さんは再度ガッツポーズを小さく決めて、きびすを返すとそのまま鼻歌交じりに階段を上っていく。
何で、ゲームのBGMなんだろう……。
その外見からは結び付け難い、金窪さんの趣味思考は、目の前にしても認めたくないような気がするのは私だけじゃない筈だ。
「体感RPG、ね」
ぽつりと呟いた。
今の状況でそれをどうこうっていうのは、やっぱり良くないと思うのだが。
前社長、こと、祖父の願いであったのは事実だし。
何より、後を継いだ――まだ学生の身分だけど――琥珀も、祖父に従うというよりも自身の願望で、そのまま進めるように言ってるという。
私と違って、琥珀は子供の頃から、そういうのが好きで。
何ていうか、頭が痛くなるんだけど、その琥珀が幼少時代に口にした、「身近なヒーローっていうと、琳ちゃんかな」、という科白が未だに私のトラウマになっている。
可笑しいって思うかもしれないけど。
そういうのもあって、私が琥珀を敬遠したいと思うというか関わりたくないと思うのに比例して、そっち系が嫌いになっていったというのも、実は嘘じゃない。
ヒーローなんて、真っ平ごめんだ。
好きでそんな事するヤツの気がしれない。
と、違う。
そうじゃない。
頭を抱えて、金窪さんとは逆の方向へ。
階段を下りてすぐの部屋をスルーして、最奥のドアの前に立つ。
それも問題かもしれないけど、それよりも、今、一番の問題は。
というか、一番の悩みの種。
私は、一つ、大きな深呼吸。
ドアをノックし、返事も待たずに押し開き、8畳ほどの広さの室内を見回し―――睨むようにして、一点を見つめてそこに歩み寄る。
「仕事、して下さい」
椅子に座るその背に向かい言い放つのと同時に、がっしりと襟首を掴んだ。
声のトーンがかなり零下なのは、仕様。
他の人の目が私に集中している、それは当然なんだろうけど。
場が沈黙しているのは、引いているのか、すでに慣れたのか。
後者だったら哀し過ぎる。
「あ、琳子。すげーよ、コレ。おもしれー」
多分、鬼の形相をしている筈の私に、満面笑みで頭を上げる。
聞いてない、通じてない、この馬鹿には。
「そういう問題ではありません」
「何だよー。仕事してるだろー」
子供全開で頬を膨らませて拗ねる姿に、私は右手に力を入れて無理やり立たせる。
眉が攣りあがってるのも、きっと仕様。
「それは、あなたが個人的にバイトしてる内容。今は、社長として仕事に来てるのだから、そちらを優先して下さい」
「えー。やだよ~、後でいいじゃん、そんなの」
「嫌でも何でも、自分で社長をやると決めたのだから、やりなさい」
「めんどーだよ~。書類と睨めっことか暇だよー」
無言で、後頭部を思いっきり殴りつけた。
痛がってるのをそのままに、腕を掴むと引きずるようにしてその場を離れる。
「皆様、お騒がせ致しました。引き続き、業務を続けて下さい」
ドアの前で反転、一礼し、哀しい事に恒例になりつつある挨拶。
「松浪さんも、お疲れ様」
「社長、こっちはまた後で。今は上で頑張って」
「ええっ! 誰も助けてくれないのっ!?」
「「「「「無理です」」」」」
差し伸べられた手に返ったのは、息ぴったりな断言。
当然だ、此処で引き止める人がいる訳がない。そこまで阿呆でもない筈だ。
「社長が、社長としても仕事をして貰わないと、僕らも困りますから。一応」
「うえええええ。裏切り者ー」
笑顔での科白に、泣きが続いて。
ていうか、どうして毎度毎度、同じ事をしてるのに懲りないんだか。
「それじゃ、仕事に戻りましょうか」
これもお決まりの科白。
溜息を付きたいのを我慢して、そのまま部屋を後にした。
一日、最低5回は繰り返してる。
本気で誰かどうにかして欲しいが、誰もどうにも出来ないのだから、私がするしかない。
「琳子~。酷いよー、せっかくイイ所だったのに…」
「琥珀、いい加減にしなさいよ?」
「うう、琳子が鬼だ…」
涙目になる。22歳にもなって情けない事この上ない。
何でこんなお子様がそのまま育った思考回路が社長に、と。
もう何度繰り返したかわからないんだけど。
「琳子ぉ~」
来た、来たよ。
その顔、年の割に童顔っていうか少年全開で、中身も見た目も、少年なんだけど。
更に、捨てられた子犬みたいな顔をする。
何度となく、コレに騙されて来た。
事実、社内のみんなはコレに騙されて――本人に騙す気はないから、更に性質が悪いんだけど――泣き寝入りというか、泣かれて負けるというか。
「そんな顔しても駄目。社長業務優先」
きっぱりと言い切ると視線を逸らす。
もう騙されないと思いつつも、私も未熟なのか、状況によっては折れてしまう訳で。
だから見ないようにして。
仕事の事に無理やり意識を集中させて。
負けてなるものか、と。
お陰で、精神はいらないくらい鍛えられてるんだけど。
「琳子が冷たい…」
「自業自得。しっかり仕事しなさいよ。嫌なら、最初から受けないで、断ればよかったの」
「…琳子、オレが爺ちゃんの跡って嫌?」
「誰が跡になろうとも、お爺様が認めたのならそれでいい。―――でもね、仕事しないってのは、そういう論法以前の問題。嫌とか嫌じゃないとか、仕事してない時点で嫌に決まってるでしょうが。第一、もう子供じゃないんだからね? 自分で決めた事くらい、きちんと成し遂げる努力をするべき。琥珀にとってそれは、お爺様の跡を継いで社長になたって事。書類が面倒とか言ってるレベルの話じゃないの、この会社の経営者っていう自覚あるの? 尤も、まだ完全に経営権は移ってないけど、学生だしね。でも、後々に全部琥珀の責任になる訳。それをわかってる? それにね、現状でも、琥珀が仕事しないと、会社が回らないのよ。止まるの、わかった?」
横槍を入れられないように、一気に、しかも早口で言い切る。
これで反論しようものなら、今の倍以上を言えばいいだけ。
「うう、ごめんなさい…」
観念した。
意気消沈、そんな言葉が似合うくらいに小さく大人しくなって、私は安堵の溜息を一つ。
遅い。
ていうか、それ以前の問題だけどね…。
さて。
社長室の机の上で、山積みとは言わないけど、小山程度になった書類の束が待っている。
さっさとそっちを進めてもらわないと、支障を来たす所か、そのうち会社が転覆するって話。
それがわからない訳ではないんだろうけど―――――そう思いたいけど。
これを繰り返すたびに、私は思うのだ。
やはり、祖父の願いであっても、断るべきだったんではないか、と。
もう、今更だけど。
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祖父が倒れてから、4ヶ月が経った。
今では会社も落ち着いてるし、斎賀の家も落ち着きを取り戻している。
先日、祖父が退院して、家に戻った。
すっかり日常通り―――――とは、流石にいかないけれど、それでも、みんなに笑顔が戻ったと思う。
私は、というと。
「松波さん、痩せた?」
何度目かわからない質問を聞いた。
元々、ガリガリとは言わないけれど、全体的に細長い私は、よく言えばスレンダー。悪く言えば幼児体型に近いものがある。
出るトコ出てないだけなんだけど。
質問の主な金窪さんは、営業さんの紅一点。物凄い美人じゃないけれど、35歳とは思えない可愛い人。
見た目も小さくて可愛いいし、実際年齢よりは若干若く見られたりするけど、雰囲気もほんわかしてるせいだと思う。
仕事に対しては鬼だけども。
そんな可愛い顔が、苦笑して私を見ている。
そういえば、直接間近で顔を合わせるのって久しぶりな気がする。
「やつれた、と言って下さい」
「……大変そうだもんね」
溜息がちの私に返ったのは、酷く同情心に満ちた同意だった。
無理もない。
と、いうか、アレを見て、そう思わない人間がいたら、私は殴りたい。
むしろ変わって欲しい。
……変われるものなら。
「でもね、あたしは人事だから、だけど。松浪さんには悪いけど、面白いと思うよ?」
「私も、遠巻きに見ればそれは思いますけれど。直接被害を被るので、勘弁して頂きたいです」
「そこは認めてるんだ。そかそか…。よく辞退しなかったね? エライエライ」
「流石に、益永さんから引継ぎをしたばかりなのに、退職する訳にもいかないでしょうから」
「……そこまでなの?」
「はい」
真顔で頷いた私に、金窪さんは意外そうなものを見る顔をしてみせる。
確かに、私がはっきりきっぱりと“誰か”を毛嫌いするってないから、珍しいのかもしれないけど。
仕方ないじゃない、唯一の例外なんだから。
「そかそか、それじゃ、やつれてもしょうがないね。ナイスダイエット法を編み出したんなら教えてもらおうと思ったんだけど。後半年もしたら夏が来るしね」
「……好きで体重減らしたのと違いますよ。第一、増やさないといけないのに」
「細くて綺麗な手足なんだからいいじゃない。羨ましいよー色白だし、肌綺麗だもんね」
「代謝がいいですから、そこは。…でも、やはり」
「…男と間違えられてナンパされるのが嫌なのね」
「嫌ですね」
「だから髪、伸ばしたんだ?」
「そうです。でも、最近は長髪の男性も多いので、数が減ったという所ですけれどね」
「あはは、しょーがないね。松浪さん、顔イイもん」
「そうですか?」
「うん。身長あるし、すらーっとしてて綺麗だよ。モデルさんとか、出来たんじゃない?」
「……足りない部分があるかと」
「そんな事ないって。まぁね、だからって訳じゃないけど、社長も心配なんじゃない?」
「それはありません」
「即答なの?」
何が可笑しいのか、金窪さんは大笑いをしてる。
心配する事はあっても、される事はない筈なんだけど。
第一、そんな愁傷な心がけがあったら、あれだけの厄介事を私に持ってくる訳ないし。
「松浪さんの事だから健康には気を付けてるだろうし、体調不良で貧血起こしたりはしないだろうから。別に心配はしないけど、でも、気を付けてね?」
「はい、有り難うございます。…金窪さんは、これから外ですか?」
此処は、会社の地下。
朝からこんな所で金窪さんに会うのは珍しい。
何しろ、朝から営業先へ直行だし、会社へ戻ってきても工場へ足を運んでまた外出、夜も遅い時間になってから事務所へ戻ってきて書類整理をしているらしい。仕事熱心と言えばそうだけど、その可愛らしい外見からは想像も付かないくらいパワフルな行動力。
「そう。こっちの作業状態がどんなかなって。……前社長の、最後の願いっていうか夢? だったでしょ。何とか完成させてあげたいんだけどね」
「体感RPGですか」
溜息。
正直、今の状況でそれの開発に気合いを入れて進めるのは、世情を見て頷けない部分がある。
ヴァーチャルリアリティを追求した、体感ゲーム。
コントローラー等を使わずに操作し、視覚、聴覚、思考を元に、ゲームの世界の住人に、実際自分がなっているかのような錯覚を起こさせるモノ。
昨年、他社で発売されたのが、そのジャンルの第一弾と呼べる代物だった。
それは、シュミレーションRPG、所謂、育成ゲームだったのだけれど。
そのリアルさに発売前から評判も高くて、当時は品切れ続出の店舗が目立ったほど。
でも。
それも、1週間も経たないうちに、波が引いて行くように、好評から酷評へと変わった。
理由は簡単だ。
リアル過ぎた事。実際、自分の身に起きた事のように、体感出来てしまっていた事。
現実逃避を促進、とかなら、まだ、その影響も少なかったんだろうけど。
ゲームと現実の区別が付きにくくなるとかは前々から不安は持たれてたけど、実際それが激しく出てて。育成ゲームだったのがいけなかったのかもしれないけど。
更に、ゲーム内で体験した事がそのまま躰にまで影響を及ぼしてしまったり。
ようは、入院患者が出る騒ぎになってしまった、と。
そのため、幾つかの会社では、開発を見送った所もあったとか。
「そう。やっぱりね、躰への影響っていうのが一番ネックなんだけど……、松波さん、この話題、あまり駄目?」
「正直な事を言えば、筆頭に上げるべきではないというが私の感想ですけれどね」
「難しい問題山積みだから?」
「そうです」
「でも、これって夢っていうか、子供心に一度は憧れた事あるんじゃないの? ヒーローとか、ヒロインとか」
「私、そういうのなかった子供ですから」
肩を竦めた。
可愛くない子供だったかもしれないけれど、私は、真面目に好きじゃない。
存在自体が“悪”である、完全懲悪物が、嫌いなだけなんだけど。
スーパーヒーローなんて、ご都合主義の塊だし。
悪役がいなかったら、完全に持て余した存在になるくせに、正義を振り翳してるのが嫌。
誰にでも、その人それぞれに正義はあるものだし。
第一、悪いヤツって言ったって、そういった物に登場するのは、往々にして生き延びるためにそうする必要があったからだ。
そんな世間一般から見て、ひねくれた物の見方をする子供は少なかっただろうけど。
「そうなんだ。お姫様とかに憧れたりは?」
「ないですね。夢みがちな子供って普通かもしれませんけど、私は昔から現実主義だったみたいですよ」
「そっかぁ、でも、なんだかそれって、松浪さんらしいね」
「そう言って貰えると、嬉しいような、哀しいような」
「褒めてるんだよ。松浪さんって、誰とでも解り合える訳じゃないって、解ってても、そうする努力をするコだからね」
自分事のように嬉しそうな顔で笑う金窪さんに、私は肩を竦めて返す。
確かに、それはそうなんだけど。
でも、言っても解って貰えない、というか通じない時は力技だからちょっと複雑だ。
それでも先に手を出す事はないけど。
一部の例外を除いて。
「さてと、それじゃ行って来ますかっ! 今日も一日頑張るぞーっ!!」
両手を振り上げてガッツポーズで気合い十分。
……本当に可愛いのに、どうしてこういう所は少年っぽぃというか、男の人みたいなんだろう。
不思議だ。
尤も、だからこそ、この会社で、しかも営業なんて務まってるんだろうけど。
流石ゲーマー。て、それは関係ないか。
「行ってらっしゃい。気を付けて下さいね」
「はーい。…松浪さんも、頑張ってね。社長の事とか」
「…はい」
脱力して答えた私に、金窪さんは再度ガッツポーズを小さく決めて、きびすを返すとそのまま鼻歌交じりに階段を上っていく。
何で、ゲームのBGMなんだろう……。
その外見からは結び付け難い、金窪さんの趣味思考は、目の前にしても認めたくないような気がするのは私だけじゃない筈だ。
「体感RPG、ね」
ぽつりと呟いた。
今の状況でそれをどうこうっていうのは、やっぱり良くないと思うのだが。
前社長、こと、祖父の願いであったのは事実だし。
何より、後を継いだ――まだ学生の身分だけど――琥珀も、祖父に従うというよりも自身の願望で、そのまま進めるように言ってるという。
私と違って、琥珀は子供の頃から、そういうのが好きで。
何ていうか、頭が痛くなるんだけど、その琥珀が幼少時代に口にした、「身近なヒーローっていうと、琳ちゃんかな」、という科白が未だに私のトラウマになっている。
可笑しいって思うかもしれないけど。
そういうのもあって、私が琥珀を敬遠したいと思うというか関わりたくないと思うのに比例して、そっち系が嫌いになっていったというのも、実は嘘じゃない。
ヒーローなんて、真っ平ごめんだ。
好きでそんな事するヤツの気がしれない。
と、違う。
そうじゃない。
頭を抱えて、金窪さんとは逆の方向へ。
階段を下りてすぐの部屋をスルーして、最奥のドアの前に立つ。
それも問題かもしれないけど、それよりも、今、一番の問題は。
というか、一番の悩みの種。
私は、一つ、大きな深呼吸。
ドアをノックし、返事も待たずに押し開き、8畳ほどの広さの室内を見回し―――睨むようにして、一点を見つめてそこに歩み寄る。
「仕事、して下さい」
椅子に座るその背に向かい言い放つのと同時に、がっしりと襟首を掴んだ。
声のトーンがかなり零下なのは、仕様。
他の人の目が私に集中している、それは当然なんだろうけど。
場が沈黙しているのは、引いているのか、すでに慣れたのか。
後者だったら哀し過ぎる。
「あ、琳子。すげーよ、コレ。おもしれー」
多分、鬼の形相をしている筈の私に、満面笑みで頭を上げる。
聞いてない、通じてない、この馬鹿には。
「そういう問題ではありません」
「何だよー。仕事してるだろー」
子供全開で頬を膨らませて拗ねる姿に、私は右手に力を入れて無理やり立たせる。
眉が攣りあがってるのも、きっと仕様。
「それは、あなたが個人的にバイトしてる内容。今は、社長として仕事に来てるのだから、そちらを優先して下さい」
「えー。やだよ~、後でいいじゃん、そんなの」
「嫌でも何でも、自分で社長をやると決めたのだから、やりなさい」
「めんどーだよ~。書類と睨めっことか暇だよー」
無言で、後頭部を思いっきり殴りつけた。
痛がってるのをそのままに、腕を掴むと引きずるようにしてその場を離れる。
「皆様、お騒がせ致しました。引き続き、業務を続けて下さい」
ドアの前で反転、一礼し、哀しい事に恒例になりつつある挨拶。
「松浪さんも、お疲れ様」
「社長、こっちはまた後で。今は上で頑張って」
「ええっ! 誰も助けてくれないのっ!?」
「「「「「無理です」」」」」
差し伸べられた手に返ったのは、息ぴったりな断言。
当然だ、此処で引き止める人がいる訳がない。そこまで阿呆でもない筈だ。
「社長が、社長としても仕事をして貰わないと、僕らも困りますから。一応」
「うえええええ。裏切り者ー」
笑顔での科白に、泣きが続いて。
ていうか、どうして毎度毎度、同じ事をしてるのに懲りないんだか。
「それじゃ、仕事に戻りましょうか」
これもお決まりの科白。
溜息を付きたいのを我慢して、そのまま部屋を後にした。
一日、最低5回は繰り返してる。
本気で誰かどうにかして欲しいが、誰もどうにも出来ないのだから、私がするしかない。
「琳子~。酷いよー、せっかくイイ所だったのに…」
「琥珀、いい加減にしなさいよ?」
「うう、琳子が鬼だ…」
涙目になる。22歳にもなって情けない事この上ない。
何でこんなお子様がそのまま育った思考回路が社長に、と。
もう何度繰り返したかわからないんだけど。
「琳子ぉ~」
来た、来たよ。
その顔、年の割に童顔っていうか少年全開で、中身も見た目も、少年なんだけど。
更に、捨てられた子犬みたいな顔をする。
何度となく、コレに騙されて来た。
事実、社内のみんなはコレに騙されて――本人に騙す気はないから、更に性質が悪いんだけど――泣き寝入りというか、泣かれて負けるというか。
「そんな顔しても駄目。社長業務優先」
きっぱりと言い切ると視線を逸らす。
もう騙されないと思いつつも、私も未熟なのか、状況によっては折れてしまう訳で。
だから見ないようにして。
仕事の事に無理やり意識を集中させて。
負けてなるものか、と。
お陰で、精神はいらないくらい鍛えられてるんだけど。
「琳子が冷たい…」
「自業自得。しっかり仕事しなさいよ。嫌なら、最初から受けないで、断ればよかったの」
「…琳子、オレが爺ちゃんの跡って嫌?」
「誰が跡になろうとも、お爺様が認めたのならそれでいい。―――でもね、仕事しないってのは、そういう論法以前の問題。嫌とか嫌じゃないとか、仕事してない時点で嫌に決まってるでしょうが。第一、もう子供じゃないんだからね? 自分で決めた事くらい、きちんと成し遂げる努力をするべき。琥珀にとってそれは、お爺様の跡を継いで社長になたって事。書類が面倒とか言ってるレベルの話じゃないの、この会社の経営者っていう自覚あるの? 尤も、まだ完全に経営権は移ってないけど、学生だしね。でも、後々に全部琥珀の責任になる訳。それをわかってる? それにね、現状でも、琥珀が仕事しないと、会社が回らないのよ。止まるの、わかった?」
横槍を入れられないように、一気に、しかも早口で言い切る。
これで反論しようものなら、今の倍以上を言えばいいだけ。
「うう、ごめんなさい…」
観念した。
意気消沈、そんな言葉が似合うくらいに小さく大人しくなって、私は安堵の溜息を一つ。
遅い。
ていうか、それ以前の問題だけどね…。
さて。
社長室の机の上で、山積みとは言わないけど、小山程度になった書類の束が待っている。
さっさとそっちを進めてもらわないと、支障を来たす所か、そのうち会社が転覆するって話。
それがわからない訳ではないんだろうけど―――――そう思いたいけど。
これを繰り返すたびに、私は思うのだ。
やはり、祖父の願いであっても、断るべきだったんではないか、と。
もう、今更だけど。
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03 悪夢
ふいに視線を私に戻した祖父が、やんわりと笑みを浮かべる。
「早いな。あんなに小さかった琳子も、今じゃこんなに大きくなった」
「……少し、大きくなりすぎた気もしますけれどね」
私は身長が175センチもある。
どうせなら、小さい方が良かった。身長が大きいだけでヘンに頼られたりした事もあったし、小さい方が可愛げがあるってもの。そこにいるだけで、場を和ませちゃったりも出来るしね。私は緊張させるのは得意みたいだけど。
「琳子」
「はい?」
「お前が、私への恩返しのつもりで働いていてくれている事は知っている」
「学生時代に言ったら怒られましたよね」
「好きな道を選べと言ったのに」
「何度も言いましたよね? 好きな道が、此処で働く事だと。だから何も言わないで履歴書送ったんですから。直接言ったら、絶対反対するだろうし、何より、コネで入ったみたいですから」
「苗字が違った事を此れ幸いとな。尤も、マスは気付いて、言って来たが…」
「普通に面接してくださって感謝しています」
「お前なら、もっと良い会社への就職も可能だったろに」
「檀家を80も持つ寺の住職の跡取という、約束された将来を投げ捨てて、会社を興した方の科白とは思えませんけど?」
「…これは、参ったな」
得意げに返した私に、祖父は苦笑した。
そう、斎賀家は、住職の家系だ。
斎寺(いつきでら)という、何処にでも有りそうな感じの名前だが、先に言った通り檀家を80も抱え、その歴史は600年近くあるという由緒正しい(?)お寺なのだ。
祖父は、その跡取息子だった――他は姉と妹――にも関わらず、後を継がずに会社を興した。
補足すると、当時住職だった曾祖父の後を継いだのは竜馬さんで、一代抜けたが、斎賀の家はしっかりと住職の家系を守っている。
「さて、琳子」
「はい?」
「私は、休もうと思っているよ。しっかりとな」
「そうして下さい。無理が立ってるんですし、軽度とはいえ馬鹿に出来ませんよ。脳梗塞。それに一応、高齢に部類するんですから。お爺様には、もう2、30年は長生きして頂かないと」
「……流石に、そこまで生きるのは無理だろう。100歳超えるじゃないか」
「お爺様なら、200歳目指せます」
「それは流石に…」
「よく言いますよね? 親孝行、したい時に、親はなしって。私が両親に出来なかった親孝行、更に、父がお爺様に出来なかった親孝行の分も合わせて、お爺様に孝行するつもりなんですから。長生きして貰わないと困ります」
「…そうか。それなら、しっかり長生きしないとな」
「はい、そうして下さい」
「琳子。私は、辞任するよ」
は?
ええと、今、凄くあっさりと、とんでもない事を言ったような気が。
私の聞き間違い?
辞任って聞こえたんだけど…?
じにん、ええと、辞任、自認、自任…。
言葉の構成状態を見て、最初に浮かんだモノ以外合わないけど。
やっぱり、聞き間違い?
「社長を、辞める、と言ったんだよ」
もう一度、しっかりと、私を見て。
辞める―――――そう、断言した。
思考が停止するってこういうのを言うんだと、思う。
頭が真っ白になるって、こういう事なんだって、何故だか冷静に考えてる自分がいた。
「どんな後遺症があるかはまだわからないが、これから検査もあるだろうからな。…琳子の言う通り、もういい年だ。それに会社の事を考えれば、此処で身を引いておいた方がいいだろう」
それは、もう決定事項なんだと、私が何を言っても覆りはしないのだろう事がわかった。
でも…。
「マスには、もう話をしてある。明日にでも、皆に伝えてくれるだろう」
「―――それで、益永さん、明日来るって…」
「ああ。マスに、琳子には黙っているよう頼んだからな。直接、言いたかったのもあるが、その件で、琳子に頼みがある」
こくり、と生唾を飲み込んだ。
何故だろう、忘れていた不安が脳裏を過ぎる。
「次の、社長の事ですか? 秘書を降りろと言うのであれば、営業に専念しますし、技術屋のサポートに回っても問題ありませんが? 益永さんから引き継ぐまで、やっていた事ですから」
「いや、出来れば続けてもらいたいと思っている。私の秘書を勤めるのはかなり大変だったと思うが、お前はよくやってくれていたし、社内全体をよく見てくれているから助かったしな」
私は首を傾げた。
実際、傾げた訳じゃないけど。
祖父の言わんとしてる事がわからない。
「後をな、琥珀(こはく)に任せようと思っている」
は?
完全に、私の思考はそこで停止した。
思考だけでなく、躰全体で。
当然のように顔にもしっかり出てた。
「やはりな…。そういう顔をすると思ったぞ」
苦笑した祖父の科白。
だって、しない訳ないじゃない?
琥珀?
冗談にしてもキツ過ぎる…。
「冗談ではなく、本気だ。益永の了承は得てる」
まるで私の心を読んだかのように。
真っ直ぐに私を見つめて。
でも、了承って。益永さんが? あの、琥珀に?
「琥珀は私に良く似ているしな」
「そうですか…?」
思わず、尖った声で呟いた。
多分、ロコツに嫌そうな顔もしてたと思う。
だって、これまでただの一度も、そんな事を思ったことはないし、第一、琥珀と祖父が似ている訳がない。
琥珀――斎賀琥珀(さいが こはく)は、竜馬さんの次男で、私からすれば従兄弟にあたる。
8歳の頃、祖父の元に引き取られた私は、竜馬さんの息子2人と一緒に育った。
所謂、幼馴染という部類に入るかもしれない。
けれど。
兄の一葉(かずは)さんは、典型的なお兄さん。
私より3歳年上で、子供の頃からやたらしっかりしたお兄さんだったから、私も実兄じゃないけど兄のように思ってる。
問題は、弟。
それが琥珀。
私より4歳年下で、今年の3月で大学を卒業する、疫病神。
子供の頃から私の後を付いて周り、犬に追いかけられては私に助けを求め、モメ事を起こしてはその後始末を私に押し付け、果てに高校時代、私に“鋼鉄の戦女神”という有り難くない通り名を付けさせた張本人。
好き好んで、近隣の不良を締める普通の女子高校生が何処にいるって言うのよ。
わざわざ遠い高校選んだのに。
それでも無駄だってわかったから、短大は片道2時間以上かかる所で独り暮らしをしてた。
それなのに、何故か3日に1度は顔を合わせていた。
夕飯漁りに来てただけみたいなんだけど…。
ほっとけばって思うでしょ?
それが出来れば、10年以上前にそうしてる。
でもね、何ていうのかな?
捨てられた子犬みたいな顔するから、ほっとけないのよ。
何であんなに同情心を誘うのが得意なんだろうと思うし、もう騙されないとも思うんだけど。
ああいうのに、弱い。
会ったばかりの頃、琥珀は4歳になったばかりだったし、本当に子供子供って感じで。私もお世話になってるからって、弟みたいな感じで面倒みてたけど。
次第に何か違うと思い始めて、絶対違うと気付いたけれど。
もう手遅れだった、そんな状態。
補足すると、進行中……。
未だに、厄介事を運んでくる。
あ、何だか目眩がして来た。
私が一人ぐらぐらしてるのを見て、むしろ、わかりきった反応なんだろうけど。
祖父は本当に、本当に、すまなそうな顔をした。
「琳子が、嫌がっているのは理解しているつもりだ。それをわかっている上で、頼みたい」
祖父は、私の事を良く知っている。
多分、私が私自身を理解している以上に、私自身が気付いていない事まで、知ってる。
と、思う。
だから、益永さんを通して伝えるのではなく、祖父自身が伝えるのを選んだ。
それに気付いてしまった。
琥珀は確かに、私にとっては疫病神で、これまでの事があるから避けて通りたいというか、係わり合いになりたくない。正直言うと。
でも。
私は、祖父の頼みを断れない。
それを知ってて、言ってる。
すまなそうな顔をしているのは、私が祖父に恩を感じているからその頼みごとが断れないだろう事を理解した上で、頼んでいるから。
「正直、まだ学生で、甘やかした覚えはないが、甘えん坊に育っているから、心配は心配だ。だが、琳子が傍に付いてくれるなら何の心配もない」
弱いな、と思う。
頼りにされるのは、嫌いじゃない。
必要とされるのは、嬉しいかもしれない。
でも、限度がある。
そして、琥珀はその限度を超えた存在。
それでも。
「仕方、ないですね」
祖父にそこまで言われて、断れるほど、私は爛れてない。
正直、祖父以外の人に言われたら速攻で断って、辞職願いを提出するけど。
「続けてくれるか」
「はい…。第一、益永さんから引き継いだばかりなのに、すぐ辞める訳にもいきませんから」
「そこまで嫌か」
「だって、琥珀に関わるとロクな事がないから」
「確かにな。…入院した事もあったな」
「2度ほど」
「それでも、頼まれてくれるか」
再度、確認の言葉。
何て言いうか、他の人にとっては、驚きこそすれ、何でもない事だろうと思う。
多分に。
けれど、私にとっては。
「はい。やると言ったからには、きっちりやります。琥珀に、しっかり、社長としての任を真っ当させます」
「そうか、有り難う」
祖父は、本当に嬉しそうに笑った。
私は苦笑しか返せなかったけれど。
「琥珀もまだ学生だしな、今すぐの話ではないが。卒業前に引継ぎは済ませるつもりだ」
「わかりました」
宣言した以上、やらない訳にはいかない。
これからを思うと頭痛どころでは済まないのだけれど、それでもやるしかなかった。
それはさながら悪夢のように思えた。
極彩色の、底がないくらい性質の悪い、悪夢に違いなかった。
私の日常は、こうして、壊れる事が決まったのだが。
やがて壊れるどころでは済まない話になるのは、もう少し先の話。
勿論、この時の私は、その後、降りかかる事になる、人生最大にして最凶の災いを知る筈もなかった。
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ふいに視線を私に戻した祖父が、やんわりと笑みを浮かべる。
「早いな。あんなに小さかった琳子も、今じゃこんなに大きくなった」
「……少し、大きくなりすぎた気もしますけれどね」
私は身長が175センチもある。
どうせなら、小さい方が良かった。身長が大きいだけでヘンに頼られたりした事もあったし、小さい方が可愛げがあるってもの。そこにいるだけで、場を和ませちゃったりも出来るしね。私は緊張させるのは得意みたいだけど。
「琳子」
「はい?」
「お前が、私への恩返しのつもりで働いていてくれている事は知っている」
「学生時代に言ったら怒られましたよね」
「好きな道を選べと言ったのに」
「何度も言いましたよね? 好きな道が、此処で働く事だと。だから何も言わないで履歴書送ったんですから。直接言ったら、絶対反対するだろうし、何より、コネで入ったみたいですから」
「苗字が違った事を此れ幸いとな。尤も、マスは気付いて、言って来たが…」
「普通に面接してくださって感謝しています」
「お前なら、もっと良い会社への就職も可能だったろに」
「檀家を80も持つ寺の住職の跡取という、約束された将来を投げ捨てて、会社を興した方の科白とは思えませんけど?」
「…これは、参ったな」
得意げに返した私に、祖父は苦笑した。
そう、斎賀家は、住職の家系だ。
斎寺(いつきでら)という、何処にでも有りそうな感じの名前だが、先に言った通り檀家を80も抱え、その歴史は600年近くあるという由緒正しい(?)お寺なのだ。
祖父は、その跡取息子だった――他は姉と妹――にも関わらず、後を継がずに会社を興した。
補足すると、当時住職だった曾祖父の後を継いだのは竜馬さんで、一代抜けたが、斎賀の家はしっかりと住職の家系を守っている。
「さて、琳子」
「はい?」
「私は、休もうと思っているよ。しっかりとな」
「そうして下さい。無理が立ってるんですし、軽度とはいえ馬鹿に出来ませんよ。脳梗塞。それに一応、高齢に部類するんですから。お爺様には、もう2、30年は長生きして頂かないと」
「……流石に、そこまで生きるのは無理だろう。100歳超えるじゃないか」
「お爺様なら、200歳目指せます」
「それは流石に…」
「よく言いますよね? 親孝行、したい時に、親はなしって。私が両親に出来なかった親孝行、更に、父がお爺様に出来なかった親孝行の分も合わせて、お爺様に孝行するつもりなんですから。長生きして貰わないと困ります」
「…そうか。それなら、しっかり長生きしないとな」
「はい、そうして下さい」
「琳子。私は、辞任するよ」
は?
ええと、今、凄くあっさりと、とんでもない事を言ったような気が。
私の聞き間違い?
辞任って聞こえたんだけど…?
じにん、ええと、辞任、自認、自任…。
言葉の構成状態を見て、最初に浮かんだモノ以外合わないけど。
やっぱり、聞き間違い?
「社長を、辞める、と言ったんだよ」
もう一度、しっかりと、私を見て。
辞める―――――そう、断言した。
思考が停止するってこういうのを言うんだと、思う。
頭が真っ白になるって、こういう事なんだって、何故だか冷静に考えてる自分がいた。
「どんな後遺症があるかはまだわからないが、これから検査もあるだろうからな。…琳子の言う通り、もういい年だ。それに会社の事を考えれば、此処で身を引いておいた方がいいだろう」
それは、もう決定事項なんだと、私が何を言っても覆りはしないのだろう事がわかった。
でも…。
「マスには、もう話をしてある。明日にでも、皆に伝えてくれるだろう」
「―――それで、益永さん、明日来るって…」
「ああ。マスに、琳子には黙っているよう頼んだからな。直接、言いたかったのもあるが、その件で、琳子に頼みがある」
こくり、と生唾を飲み込んだ。
何故だろう、忘れていた不安が脳裏を過ぎる。
「次の、社長の事ですか? 秘書を降りろと言うのであれば、営業に専念しますし、技術屋のサポートに回っても問題ありませんが? 益永さんから引き継ぐまで、やっていた事ですから」
「いや、出来れば続けてもらいたいと思っている。私の秘書を勤めるのはかなり大変だったと思うが、お前はよくやってくれていたし、社内全体をよく見てくれているから助かったしな」
私は首を傾げた。
実際、傾げた訳じゃないけど。
祖父の言わんとしてる事がわからない。
「後をな、琥珀(こはく)に任せようと思っている」
は?
完全に、私の思考はそこで停止した。
思考だけでなく、躰全体で。
当然のように顔にもしっかり出てた。
「やはりな…。そういう顔をすると思ったぞ」
苦笑した祖父の科白。
だって、しない訳ないじゃない?
琥珀?
冗談にしてもキツ過ぎる…。
「冗談ではなく、本気だ。益永の了承は得てる」
まるで私の心を読んだかのように。
真っ直ぐに私を見つめて。
でも、了承って。益永さんが? あの、琥珀に?
「琥珀は私に良く似ているしな」
「そうですか…?」
思わず、尖った声で呟いた。
多分、ロコツに嫌そうな顔もしてたと思う。
だって、これまでただの一度も、そんな事を思ったことはないし、第一、琥珀と祖父が似ている訳がない。
琥珀――斎賀琥珀(さいが こはく)は、竜馬さんの次男で、私からすれば従兄弟にあたる。
8歳の頃、祖父の元に引き取られた私は、竜馬さんの息子2人と一緒に育った。
所謂、幼馴染という部類に入るかもしれない。
けれど。
兄の一葉(かずは)さんは、典型的なお兄さん。
私より3歳年上で、子供の頃からやたらしっかりしたお兄さんだったから、私も実兄じゃないけど兄のように思ってる。
問題は、弟。
それが琥珀。
私より4歳年下で、今年の3月で大学を卒業する、疫病神。
子供の頃から私の後を付いて周り、犬に追いかけられては私に助けを求め、モメ事を起こしてはその後始末を私に押し付け、果てに高校時代、私に“鋼鉄の戦女神”という有り難くない通り名を付けさせた張本人。
好き好んで、近隣の不良を締める普通の女子高校生が何処にいるって言うのよ。
わざわざ遠い高校選んだのに。
それでも無駄だってわかったから、短大は片道2時間以上かかる所で独り暮らしをしてた。
それなのに、何故か3日に1度は顔を合わせていた。
夕飯漁りに来てただけみたいなんだけど…。
ほっとけばって思うでしょ?
それが出来れば、10年以上前にそうしてる。
でもね、何ていうのかな?
捨てられた子犬みたいな顔するから、ほっとけないのよ。
何であんなに同情心を誘うのが得意なんだろうと思うし、もう騙されないとも思うんだけど。
ああいうのに、弱い。
会ったばかりの頃、琥珀は4歳になったばかりだったし、本当に子供子供って感じで。私もお世話になってるからって、弟みたいな感じで面倒みてたけど。
次第に何か違うと思い始めて、絶対違うと気付いたけれど。
もう手遅れだった、そんな状態。
補足すると、進行中……。
未だに、厄介事を運んでくる。
あ、何だか目眩がして来た。
私が一人ぐらぐらしてるのを見て、むしろ、わかりきった反応なんだろうけど。
祖父は本当に、本当に、すまなそうな顔をした。
「琳子が、嫌がっているのは理解しているつもりだ。それをわかっている上で、頼みたい」
祖父は、私の事を良く知っている。
多分、私が私自身を理解している以上に、私自身が気付いていない事まで、知ってる。
と、思う。
だから、益永さんを通して伝えるのではなく、祖父自身が伝えるのを選んだ。
それに気付いてしまった。
琥珀は確かに、私にとっては疫病神で、これまでの事があるから避けて通りたいというか、係わり合いになりたくない。正直言うと。
でも。
私は、祖父の頼みを断れない。
それを知ってて、言ってる。
すまなそうな顔をしているのは、私が祖父に恩を感じているからその頼みごとが断れないだろう事を理解した上で、頼んでいるから。
「正直、まだ学生で、甘やかした覚えはないが、甘えん坊に育っているから、心配は心配だ。だが、琳子が傍に付いてくれるなら何の心配もない」
弱いな、と思う。
頼りにされるのは、嫌いじゃない。
必要とされるのは、嬉しいかもしれない。
でも、限度がある。
そして、琥珀はその限度を超えた存在。
それでも。
「仕方、ないですね」
祖父にそこまで言われて、断れるほど、私は爛れてない。
正直、祖父以外の人に言われたら速攻で断って、辞職願いを提出するけど。
「続けてくれるか」
「はい…。第一、益永さんから引き継いだばかりなのに、すぐ辞める訳にもいきませんから」
「そこまで嫌か」
「だって、琥珀に関わるとロクな事がないから」
「確かにな。…入院した事もあったな」
「2度ほど」
「それでも、頼まれてくれるか」
再度、確認の言葉。
何て言いうか、他の人にとっては、驚きこそすれ、何でもない事だろうと思う。
多分に。
けれど、私にとっては。
「はい。やると言ったからには、きっちりやります。琥珀に、しっかり、社長としての任を真っ当させます」
「そうか、有り難う」
祖父は、本当に嬉しそうに笑った。
私は苦笑しか返せなかったけれど。
「琥珀もまだ学生だしな、今すぐの話ではないが。卒業前に引継ぎは済ませるつもりだ」
「わかりました」
宣言した以上、やらない訳にはいかない。
これからを思うと頭痛どころでは済まないのだけれど、それでもやるしかなかった。
それはさながら悪夢のように思えた。
極彩色の、底がないくらい性質の悪い、悪夢に違いなかった。
私の日常は、こうして、壊れる事が決まったのだが。
やがて壊れるどころでは済まない話になるのは、もう少し先の話。
勿論、この時の私は、その後、降りかかる事になる、人生最大にして最凶の災いを知る筈もなかった。
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02 病院
病院は、正直好きじゃない。
多分、好きな人なんて稀少だろうけど。
私は足を踏み入れるのも、視界にその建物を入れるのも、好きじゃない。
病院には、嫌な思い出しかないから。
それでも行かなきゃならない。
社長には、返しても、返しきれないくらいの、恩があるから。
入院患者の見舞い専用の出入り口は帰る人がちらほら。
その人達を避けるように、私は扉を潜った。
「琳子ちゃん」
思わず、全身硬直。
普段ならそんな事はないけど、自分の名前を呼ばれた事に、その声に、自然と反応してしまった。
「…竜馬さん」
「仕事、お疲れ様。会社の方は大丈夫だった?」
「はい。益永さんから連絡を頂いて、皆さん、一安心したようでした」
「そう。親父が迷惑かけるね」
「いえ、全く。迷惑など、一つもないです。自分で望んだ事ですから」
「そういう意味じゃないよ」
困ったように笑った竜馬さんが、ぽんっと私の頭に手を乗せる。
「強張った顔してたよ? 此処、本当は来るの嫌だったんだろう? ―――それに、私が此処にいたのも、驚かせたね」
その言葉に、再度、硬直。
余り喜怒哀楽が激しい方じゃないから、こんな事って滅多にないんだけど。
どうにも、弱い。
この場所だけじゃなくて、竜馬さんにも。
「すみません。余計な心配をかけて、今、大変な時なのに」
「いいんだよ、そこまで他人行儀にしなくて。琳子ちゃんは、娘とも思ってるんだから。…とは言え、親父もそう思ってる様だから、私からすると妹と言った方がいいのかな」
「それだと、竜馬さんの息子さんより年下の妹になっちゃいますよ」
「確かにね」
苦笑した私に、にっこりと、いつもの優しげな笑みを竜馬さんが浮かべて肩を竦めた。
つられて私も肩を竦める。
「親父が待ってるからこのくらいにしておこうかな。病室、305号だから。それと、もし、遅くなりそうな時は連絡を入れるようにね? 誰か迎えをやるから」
「私、一人で帰れますよ? それに車で来てるので、迎えは大丈夫です。第一、もう26歳なんですから、一人で帰れないと駄目じゃないですか」
私の科白に、きょとんとした顔をして、それから小さくクスクスと笑った。
「確かに、いつまでも子供のままな訳がないよね。それじゃ、此処を出る前に連絡を入れて貰えるかな。夕食の用意しておくし、お子様がヘンな問題起こすかもしれないからね」
「……はい」
「いつも琳子ちゃんには迷惑かけっぱなしだ」
「その点に関しては、否定しないでおいておきます」
苦笑した私に、同じように苦笑して、竜馬さんは「それじゃ」と小さく言って、すれ違うように出入り口から出て行く。
その背を見送ってから、両手をぐっと握りしめて、私は病室へと向かう。
竜馬さんのお陰で気が少しだけ楽になったし、口に出してああいう風に言ったという事は、本当に私はそういう顔をしていたんだと思う。
歩きながら、かなり酷い顔をしていたんだろうと今更になって実感した。
そんな顔をしたまま病室へ行ったら、きっと大変な事になっただろうから。
それでなくとも、心配をかけてると言うのに。
305号室。
斎賀京一郎(さいが きょういちろう)。
病室と、名前も確認。此処だ。
さて、最初に何と言おう。
とりあえず、深呼吸を一つ。
それからドアをノックして、返事を聞かずに扉を開く。
「琳子」
開ききる前に自分の名前を呼ばれて、一気に何かが抜け落ちた。
倒れた時からは想像も付かないくらい、普段通りの優しい声だったから。
けれど、開いたその部屋は、安堵した私を再び落とすくらいの勢いをしっかり持ってて。
TVで見た事しかないような機械が置いてある。
コードが何本も合って、それらに繋がれてる。
点滴くらいは、流石にわかるけど。
「会社の方は、何も心配ありません」
気を引き締め様と思ってた私の口から出た科白は、そんなモノだった。
別にそれを最初に言うつもりは全くなかったのに。
「マスから聞いたよ。心配かけたね」
いたずらっぽい笑みを浮かべ、肩を竦める。
私はその姿を見つめ、溜息を一つ。
「丁度良い機会ですから、ゆっくり休んで下さいね? お休みなんて、滅多に取られないんですから」
「そうだな」
何度言っても聞いてもらえなかった科白、それなのに、返ったのはこれまで一度も聞いた事のない同意だった。
思わず、凝視するように見つめ返してしまう。
驚かない訳がない。
私の知る限り、この人が仕事を休んだ、という記憶が全くないからだ。
何時だって、休みなく動いていた。
益永さんが何時だったか「マグロと一緒で動いてないと死んでしまうんだよ」と苦笑してた事があるくらい、止まってるのは寝てる時だけなんじゃないかと思えるくらいだったから。
「そこまで驚かれるとは思わなかったが…」
苦笑して呟かれた科白に、ハタとする。
「いえ、普通に驚くと思いますけど。社長の辞書に、自分が休む、という単語はないと思ってました」
「まさか、そんな訳はない。…ただな、大変でもそれが愉しいし、完成した時の喜びを思えば苦労などヘでもない、喜んで愉しそうにしてる子供達の顔を見ると、疲れなんてふっとんだからな」
「躰の疲れは取れませんよ、それでは」
「全くだ」
しみじみ痛感したとでも言うように、大きく頷く姿に、私は何だか嫌な予感を覚えた。
いつだって子供みたいに、元気一杯で、落ち込んだかと思えばすぐに立ち直って、前以上に元気になっていた姿とは、何だか違って見えたから。
「琳子、此処は会社ではないよ。堅苦しいのは抜きにしよう。まずは、何時までも立ってないで座ったらどうかな?」
「わかりました」
小さく肩を竦めて、傍にあった椅子に腰を降ろした。
静かな眼差しで見守られるのはいつもの事だけど、いつまでたっても慣れそうにもない。
何だかちょっと気恥ずかしい。
「此処へ来るのは、平気だったか?」
「はい、と言いたい所ですが、入り口の所で竜馬さんに会いました。かなり酷い顔だったみたいです」
「そうか。無理もないな」
「こればかりは、慣れようがありません。避けてましたから」
「もう、18年か」
「はい…。お爺様に初めて会ってからも、そうなります」
目を細めて、遠くを眺めるようにした姿に、私は視線を逸らした。
社長――斎賀京一郎は私の父方の祖父にあたる。
この人に私が初めて会ったのは、両親が亡くなった後だった。
やんちゃ坊主がそのまま大人になったような父は、何を勘違いしたのか、祖母の言葉を自己解釈し、結婚を反対されていると思い込んで駆け落ちしたらしい。
松浪は、母の性。
私の記憶にある父の姿も、休みのたびに、まるで子供のように我先に遊びに夢中になっていた姿だ。何処へ行くのも、私を遊ばせるためというのは名目でしかないと――名目なんて言葉は当時知らなかったけど――幼心に気付いていた。母も一緒になって愉しんだり、その姿を嬉しそうに眺めていた。
そんな私の両親は、自宅が火事になって他界した。
所謂専業主婦だった母が家にいたのはともかくとし、平日の昼間に家にどうして父が家にいたのかは、未だにわからない。私は当時、小学三年生だった。
学校で先生から話を聞いて、言っている意味がよくわからなかったのを覚えている。
その後、病院へ連れて行かれ、竜馬さんに会った。
父の兄である竜馬さんは何度か家に遊びに来た事があったけれど、それでも、何故か怖いと思ったのは覚えている。
両親とは、その日の朝、顔を会わせたきりで、亡くなった姿を見てはいない。
私の記憶では、優しげに――むしろ愉しげに、笑っていた姿だけ。
あの火事は、その日まで私が持っていたモノの全てを、私から奪っていった。
それを思い出すから、私は病院が嫌いだった。
遠い目になってる祖父の姿に不安が過ぎる。
私にそれを思い出させようと来いと言う訳はないから。
勿論、言われなくても来たけれど。
昼間の悪寒を再度感じて、軽く身震いした。
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病院は、正直好きじゃない。
多分、好きな人なんて稀少だろうけど。
私は足を踏み入れるのも、視界にその建物を入れるのも、好きじゃない。
病院には、嫌な思い出しかないから。
それでも行かなきゃならない。
社長には、返しても、返しきれないくらいの、恩があるから。
入院患者の見舞い専用の出入り口は帰る人がちらほら。
その人達を避けるように、私は扉を潜った。
「琳子ちゃん」
思わず、全身硬直。
普段ならそんな事はないけど、自分の名前を呼ばれた事に、その声に、自然と反応してしまった。
「…竜馬さん」
「仕事、お疲れ様。会社の方は大丈夫だった?」
「はい。益永さんから連絡を頂いて、皆さん、一安心したようでした」
「そう。親父が迷惑かけるね」
「いえ、全く。迷惑など、一つもないです。自分で望んだ事ですから」
「そういう意味じゃないよ」
困ったように笑った竜馬さんが、ぽんっと私の頭に手を乗せる。
「強張った顔してたよ? 此処、本当は来るの嫌だったんだろう? ―――それに、私が此処にいたのも、驚かせたね」
その言葉に、再度、硬直。
余り喜怒哀楽が激しい方じゃないから、こんな事って滅多にないんだけど。
どうにも、弱い。
この場所だけじゃなくて、竜馬さんにも。
「すみません。余計な心配をかけて、今、大変な時なのに」
「いいんだよ、そこまで他人行儀にしなくて。琳子ちゃんは、娘とも思ってるんだから。…とは言え、親父もそう思ってる様だから、私からすると妹と言った方がいいのかな」
「それだと、竜馬さんの息子さんより年下の妹になっちゃいますよ」
「確かにね」
苦笑した私に、にっこりと、いつもの優しげな笑みを竜馬さんが浮かべて肩を竦めた。
つられて私も肩を竦める。
「親父が待ってるからこのくらいにしておこうかな。病室、305号だから。それと、もし、遅くなりそうな時は連絡を入れるようにね? 誰か迎えをやるから」
「私、一人で帰れますよ? それに車で来てるので、迎えは大丈夫です。第一、もう26歳なんですから、一人で帰れないと駄目じゃないですか」
私の科白に、きょとんとした顔をして、それから小さくクスクスと笑った。
「確かに、いつまでも子供のままな訳がないよね。それじゃ、此処を出る前に連絡を入れて貰えるかな。夕食の用意しておくし、お子様がヘンな問題起こすかもしれないからね」
「……はい」
「いつも琳子ちゃんには迷惑かけっぱなしだ」
「その点に関しては、否定しないでおいておきます」
苦笑した私に、同じように苦笑して、竜馬さんは「それじゃ」と小さく言って、すれ違うように出入り口から出て行く。
その背を見送ってから、両手をぐっと握りしめて、私は病室へと向かう。
竜馬さんのお陰で気が少しだけ楽になったし、口に出してああいう風に言ったという事は、本当に私はそういう顔をしていたんだと思う。
歩きながら、かなり酷い顔をしていたんだろうと今更になって実感した。
そんな顔をしたまま病室へ行ったら、きっと大変な事になっただろうから。
それでなくとも、心配をかけてると言うのに。
305号室。
斎賀京一郎(さいが きょういちろう)。
病室と、名前も確認。此処だ。
さて、最初に何と言おう。
とりあえず、深呼吸を一つ。
それからドアをノックして、返事を聞かずに扉を開く。
「琳子」
開ききる前に自分の名前を呼ばれて、一気に何かが抜け落ちた。
倒れた時からは想像も付かないくらい、普段通りの優しい声だったから。
けれど、開いたその部屋は、安堵した私を再び落とすくらいの勢いをしっかり持ってて。
TVで見た事しかないような機械が置いてある。
コードが何本も合って、それらに繋がれてる。
点滴くらいは、流石にわかるけど。
「会社の方は、何も心配ありません」
気を引き締め様と思ってた私の口から出た科白は、そんなモノだった。
別にそれを最初に言うつもりは全くなかったのに。
「マスから聞いたよ。心配かけたね」
いたずらっぽい笑みを浮かべ、肩を竦める。
私はその姿を見つめ、溜息を一つ。
「丁度良い機会ですから、ゆっくり休んで下さいね? お休みなんて、滅多に取られないんですから」
「そうだな」
何度言っても聞いてもらえなかった科白、それなのに、返ったのはこれまで一度も聞いた事のない同意だった。
思わず、凝視するように見つめ返してしまう。
驚かない訳がない。
私の知る限り、この人が仕事を休んだ、という記憶が全くないからだ。
何時だって、休みなく動いていた。
益永さんが何時だったか「マグロと一緒で動いてないと死んでしまうんだよ」と苦笑してた事があるくらい、止まってるのは寝てる時だけなんじゃないかと思えるくらいだったから。
「そこまで驚かれるとは思わなかったが…」
苦笑して呟かれた科白に、ハタとする。
「いえ、普通に驚くと思いますけど。社長の辞書に、自分が休む、という単語はないと思ってました」
「まさか、そんな訳はない。…ただな、大変でもそれが愉しいし、完成した時の喜びを思えば苦労などヘでもない、喜んで愉しそうにしてる子供達の顔を見ると、疲れなんてふっとんだからな」
「躰の疲れは取れませんよ、それでは」
「全くだ」
しみじみ痛感したとでも言うように、大きく頷く姿に、私は何だか嫌な予感を覚えた。
いつだって子供みたいに、元気一杯で、落ち込んだかと思えばすぐに立ち直って、前以上に元気になっていた姿とは、何だか違って見えたから。
「琳子、此処は会社ではないよ。堅苦しいのは抜きにしよう。まずは、何時までも立ってないで座ったらどうかな?」
「わかりました」
小さく肩を竦めて、傍にあった椅子に腰を降ろした。
静かな眼差しで見守られるのはいつもの事だけど、いつまでたっても慣れそうにもない。
何だかちょっと気恥ずかしい。
「此処へ来るのは、平気だったか?」
「はい、と言いたい所ですが、入り口の所で竜馬さんに会いました。かなり酷い顔だったみたいです」
「そうか。無理もないな」
「こればかりは、慣れようがありません。避けてましたから」
「もう、18年か」
「はい…。お爺様に初めて会ってからも、そうなります」
目を細めて、遠くを眺めるようにした姿に、私は視線を逸らした。
社長――斎賀京一郎は私の父方の祖父にあたる。
この人に私が初めて会ったのは、両親が亡くなった後だった。
やんちゃ坊主がそのまま大人になったような父は、何を勘違いしたのか、祖母の言葉を自己解釈し、結婚を反対されていると思い込んで駆け落ちしたらしい。
松浪は、母の性。
私の記憶にある父の姿も、休みのたびに、まるで子供のように我先に遊びに夢中になっていた姿だ。何処へ行くのも、私を遊ばせるためというのは名目でしかないと――名目なんて言葉は当時知らなかったけど――幼心に気付いていた。母も一緒になって愉しんだり、その姿を嬉しそうに眺めていた。
そんな私の両親は、自宅が火事になって他界した。
所謂専業主婦だった母が家にいたのはともかくとし、平日の昼間に家にどうして父が家にいたのかは、未だにわからない。私は当時、小学三年生だった。
学校で先生から話を聞いて、言っている意味がよくわからなかったのを覚えている。
その後、病院へ連れて行かれ、竜馬さんに会った。
父の兄である竜馬さんは何度か家に遊びに来た事があったけれど、それでも、何故か怖いと思ったのは覚えている。
両親とは、その日の朝、顔を会わせたきりで、亡くなった姿を見てはいない。
私の記憶では、優しげに――むしろ愉しげに、笑っていた姿だけ。
あの火事は、その日まで私が持っていたモノの全てを、私から奪っていった。
それを思い出すから、私は病院が嫌いだった。
遠い目になってる祖父の姿に不安が過ぎる。
私にそれを思い出させようと来いと言う訳はないから。
勿論、言われなくても来たけれど。
昼間の悪寒を再度感じて、軽く身震いした。
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01 始まりの、始まり
初めまして。
私、松浪琳子(まつなみ りんこ)。
26歳独身、社長秘書とかやってます。
半年ほど前に、第一秘書になりました。
というか、私だけしかいないですけど。
いえ、それはいいんです。
今はそれどころではなくて。
「松浪さん、益永さんからお電話です」
「はいっ!」
益永さんは、会社創設時――3人で始めたらしいけど――から社長を補佐してきた元秘書の人。
定年を迎えるにあたって、引継ぎ等の理由から半年の余裕を持ってと言われて離れたんですけど、実際は現場に付きっきりになりたかっただけのような…って、そうじゃない。
我が社は現在、大変な状況なんです!
昨日、社長が倒れてしまって。
それでも仕事に穴を開けられないからと私は出勤していて、益永さんが社長に付き添っていた訳です。
「お電話代わりました、松浪です」
「松浪君、社長、意識が戻ったよ」
「本当ですか…?」
「ああ。今、息子の竜馬(たつま)君が医師から詳しい話を聞いてるが、会話が出来るから大丈夫だろう」
益永さんの言葉に、思わず泣きそうになった。
とはいえ、此処は会社なのでそうもいきません。
っていうか、泣いたら変な勘違いされてしまうし。
「それで、松浪君。会社の方はどうかな? 自分の躰の事より、あの人は会社の心配を一番最初に口にしたよ」
困ったように笑って、益永さんはそう言いました。
「はい、現在の所、特に問題は起きていません。…強いて言うなら、みんな不安そうな顔で必死に通常業務をこなそうとしていますけど」
「そうか。では、そう伝えておこう」
益永さんも心配だったのか、安堵したような声。
結局、社長も益永さんもとことん会社人間っていうか、この会社、本当に好きだよね。
自分の子供みたいなモノだって以前言ってたのを聞いた気がするし。
「ああ、皆にも、社長は大丈夫だと伝えておいてくれ」
「わかりました」
「それと、仕事が終ったらこっちに顔を出してもらえるかな?」
「言われなくても行きますよ」
「それもそうだな」
少し拗ねたような口調で言った私に、思いっきりの笑い声で益永さんは頷いた。
それもちょっとどうかと思うんだけど…。
病院から電話してるのに、大声で笑って怒られたりしないのかな、なんて思ってたら、やっぱり注意されたのか、背後に女性の声が小さく入る。
「と、すまんな。そろそろ病室に戻るとするよ」
「はい。6時にはそちらにいけると思います」
「わかった。私も、明日は会社に顔を出すつもりだ」
そこまでで、電話は切れて。
受話器を置いて顔を上げた私は、仕事の手を止めて一点集中している同僚の視線に気付いたのでした。
遅。
「仕事して下さい」
思わず、食い入るように見つめられていたので――それに気付かなかった自分の迂闊さにも厭きれたのもあり――尖った声で言ってしまった。
言った自分が一番驚いたんだけど、何ていうか、場の空気が途端に氷河期。
気を取り直すように、小さな咳払いを一つ。
「皆さんがお仕事を再開して下さいましたら、益永さんからの伝言をお伝えします」
苦笑しつつの私の言葉に、みんな慌てて、止めていた仕事を再開。
どたばたって擬音が似合いそうな光景…。
じゃなくて。
「まず、社長ですが、意識が戻られたそうです。詳しい事は、明日にでも、益永さんからお話があると思います。出社すると言ってましたから」
その声に、まさに、わぁっという歓声。
仕事の手なんかそっちのけで、みんな凄い嬉しそう。
さっきまでの不安顔はどこへやら。
「社長は、会社の事を一番最初に口にしたそうです。これ以上心配のタネを増やさないためにも、皆さん、仕事しましょう」
私も顔が緩んでしまうのは仕方ない。
みんなが喜ぶ気持ちも凄くよくわかる。
でも、仕事はしないといけない。
こっちが心配してる社長だって、逆にこっちの心配しちゃってるんだから。
「営業行って来ます」
普段は朝から晩までいないくせに、今日は珍しく事務所で書類と睨めっこしてた牧原さんがそう言いながら席を立つ。
社長の安否を聞くためだけに此処にいたとしか思えない行動。
「これで安心して仕事出来るな」
「全くだ、オレも行って来る」
ぽつりと牧原さんが続けた科白で、先の思考は肯定された。
更に、今井さんが頷いて同じように席を立つ。
「あれって、今まで仕事せずに座ってたって事?」
二人揃って仲良く去るその背に向かい、経理の松村さんがぽつりと一言。
私もそう思ったけど、流石に口には出来なかった。
牧原さんも、今井さんも、私より20も年上だし……。
勤続20年を超える、松村さんにしか言えない科白。
「彼等にとっては、此処での書類整理は仕事の準備と後片付けという認識だからね」
同じく営業の河野さんが苦笑してそう答えた。
肩書きは、営業部長。とは言え、営業は4人しかいない。当然、河野さん自身も含んで。
営業を兼任しているのか、営業部長を兼任しているのか、此処で働いて7年経つけど未だにわからない。多分、後者だろうけどね。
ちなみに、会社創設時の3人の内の最後の1人。
「河野さんの教育の賜物?」
「ははは、松村さんには勝てませんよ」
「またまた~。褒めたって何にも出ないわよ~?」
「お世辞じゃないよ。そうだよね、三石さん?」
急に話を振られて、パソコンと睨めっこしてた朋美が顔を上げた。
「そうですね。河野さんは、教え方がとても上手ですし、よく面倒を見てくれますし。仕事以外の相談まで乗ってくれたりとか、頼りにもなります」
朗らかな笑顔で頷いた。
朋美は、私と同期入社。
他社で2年勤めた後の再就職で、年は私より1歳上だったりするけど、元々高校の先輩で仲が良かったから、就職試験の時に顔を合わせてびっくりしたんだよね。
当時は朋美先輩って呼んでたんだけど、此処じゃ同期なんだから先輩いらないでしょって言われて、今は呼び捨て。
「あ~それ、違う違う。三石さんは教える事、特になかったから。即戦力ってこういうコを言うの、私も助かってるしね」
どうでもいいけど、総務と経理を同じ人が担当してる。
三石さんの前にも人はいたらしいけど、寿退社しちゃって、河野さん一人で大変だったらしい。
尤も、河野さん曰く、「社長に益永さんが手伝ってくれてね、昔取った杵柄とか言っちゃって。だからそう大変でもなかったよ」という事らしい。
周りで見てて大変だったんだろうな…。
本人に自覚ないだけで。
「即戦力と言えば、松浪さんもね。技術屋の豊島君もそうだけど、この時の入社社員はみんな上手く育ってくれてるよね」
って、いきなり河野さんがこっち向いた。
私と言えば、いつもの歓談をさておき、机に座って書類整理の続きをしてた訳で。
確かに聞き耳はしっかり立ててたけど、どうしてこっちに振るかな…?
「河野さん、褒めても何も出ません」
苦笑しての私の科白に、河野さんは本当に愉しそうな笑みを浮かべた。
「ほら、やっぱり。しっかり育ってるじゃないか」
「松村さんは、私にとっても頼りになりますし、かつ、見習う所が多々ある女性の先輩ですから」
さも当然というように肩を竦めて答えた私に、河野さんは高らかな笑い声を上げた。
「私を見習うなら、松浪さんもそろそろ結婚しないと」
「急に話題がそちらに飛びますか?」
「だって女性の特権よ? 結婚して、出産してって」
「いや、それはそうかもしれませんが…。私はまだまだ…」
「琳子は彼氏がいないから、結婚以前の問題かと思いますけど?」
「それ、フォローになってません」
「でも事実だし?」
「松浪さんなら彼氏の1人や2人、作ろうと思えば作れるでしょーに」
「無理です、松村さん。琳子に手を出そうものなら、屍の山が出来上がります」
普段の笑顔のままであっさりと不穏な事を口にした朋美の発言で、場が、再度氷河期に。
事実だけに私も反論出来ないんだけど…。
「さて、私も営業に出るとするかな」
お茶を綺麗に飲み干して、河野さんが立ち上がる。
普通に居辛くなったんだろうな…。
出来るなら私も逃げたい気分、この手の話題は正直、苦手。
「3人とも、話の続きは昼休みにでも回して、そろそろ仕事を再開した方がいいよ?」
入り口に立ってそんな事を言って、河野さんは扉の向こうへと姿を消した。
自分で話を振ってきたのに。
そもそも始めたのは、松村さんだけど…。
「逃げたね」
「そうですね」
「ま、河野さんの言う事も一理あるから。仕事しましょ」
「はい」
経理兼総務部の二人は、親子のように仲が良い。
趣味も似ているからなのか、外を歩いていて親子に間違えられた事があると聞いた事がある。
実際問題、近い将来そうなりそうだという噂が漂っているのが怖い所だ。
じゃなくて。
私も仕事に戻らないと。
「今日、帰りに病院に寄りますけれど、社長宛てに何かありましたら言って下さい」
それだけを伝えて、私は仕事に戻る。
やる事は山ほどあるし、整理しなければならない事もたくさんある。
何より。
今更になって気になるのは、益永さんの科白だ。
これまでを思えば、口に出さずとも、私が病院に寄るであろう事は簡単に予想が付いた筈なのに。
何故、わざわざ、告げる必要があったのか。
あれは確認の意図があったとしか思えない。
それはつまり、何か、私にとって重要な事があるから。
一瞬だけ不安が過ぎったが、目の前に集中する事にした。
全ては、仕事が終った後だ。
そうして、私は、後に、その不安が、気のせいではなくて。
本能が告げた、危険信号であったのを理解する事になる。
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初めまして。
私、松浪琳子(まつなみ りんこ)。
26歳独身、社長秘書とかやってます。
半年ほど前に、第一秘書になりました。
というか、私だけしかいないですけど。
いえ、それはいいんです。
今はそれどころではなくて。
「松浪さん、益永さんからお電話です」
「はいっ!」
益永さんは、会社創設時――3人で始めたらしいけど――から社長を補佐してきた元秘書の人。
定年を迎えるにあたって、引継ぎ等の理由から半年の余裕を持ってと言われて離れたんですけど、実際は現場に付きっきりになりたかっただけのような…って、そうじゃない。
我が社は現在、大変な状況なんです!
昨日、社長が倒れてしまって。
それでも仕事に穴を開けられないからと私は出勤していて、益永さんが社長に付き添っていた訳です。
「お電話代わりました、松浪です」
「松浪君、社長、意識が戻ったよ」
「本当ですか…?」
「ああ。今、息子の竜馬(たつま)君が医師から詳しい話を聞いてるが、会話が出来るから大丈夫だろう」
益永さんの言葉に、思わず泣きそうになった。
とはいえ、此処は会社なのでそうもいきません。
っていうか、泣いたら変な勘違いされてしまうし。
「それで、松浪君。会社の方はどうかな? 自分の躰の事より、あの人は会社の心配を一番最初に口にしたよ」
困ったように笑って、益永さんはそう言いました。
「はい、現在の所、特に問題は起きていません。…強いて言うなら、みんな不安そうな顔で必死に通常業務をこなそうとしていますけど」
「そうか。では、そう伝えておこう」
益永さんも心配だったのか、安堵したような声。
結局、社長も益永さんもとことん会社人間っていうか、この会社、本当に好きだよね。
自分の子供みたいなモノだって以前言ってたのを聞いた気がするし。
「ああ、皆にも、社長は大丈夫だと伝えておいてくれ」
「わかりました」
「それと、仕事が終ったらこっちに顔を出してもらえるかな?」
「言われなくても行きますよ」
「それもそうだな」
少し拗ねたような口調で言った私に、思いっきりの笑い声で益永さんは頷いた。
それもちょっとどうかと思うんだけど…。
病院から電話してるのに、大声で笑って怒られたりしないのかな、なんて思ってたら、やっぱり注意されたのか、背後に女性の声が小さく入る。
「と、すまんな。そろそろ病室に戻るとするよ」
「はい。6時にはそちらにいけると思います」
「わかった。私も、明日は会社に顔を出すつもりだ」
そこまでで、電話は切れて。
受話器を置いて顔を上げた私は、仕事の手を止めて一点集中している同僚の視線に気付いたのでした。
遅。
「仕事して下さい」
思わず、食い入るように見つめられていたので――それに気付かなかった自分の迂闊さにも厭きれたのもあり――尖った声で言ってしまった。
言った自分が一番驚いたんだけど、何ていうか、場の空気が途端に氷河期。
気を取り直すように、小さな咳払いを一つ。
「皆さんがお仕事を再開して下さいましたら、益永さんからの伝言をお伝えします」
苦笑しつつの私の言葉に、みんな慌てて、止めていた仕事を再開。
どたばたって擬音が似合いそうな光景…。
じゃなくて。
「まず、社長ですが、意識が戻られたそうです。詳しい事は、明日にでも、益永さんからお話があると思います。出社すると言ってましたから」
その声に、まさに、わぁっという歓声。
仕事の手なんかそっちのけで、みんな凄い嬉しそう。
さっきまでの不安顔はどこへやら。
「社長は、会社の事を一番最初に口にしたそうです。これ以上心配のタネを増やさないためにも、皆さん、仕事しましょう」
私も顔が緩んでしまうのは仕方ない。
みんなが喜ぶ気持ちも凄くよくわかる。
でも、仕事はしないといけない。
こっちが心配してる社長だって、逆にこっちの心配しちゃってるんだから。
「営業行って来ます」
普段は朝から晩までいないくせに、今日は珍しく事務所で書類と睨めっこしてた牧原さんがそう言いながら席を立つ。
社長の安否を聞くためだけに此処にいたとしか思えない行動。
「これで安心して仕事出来るな」
「全くだ、オレも行って来る」
ぽつりと牧原さんが続けた科白で、先の思考は肯定された。
更に、今井さんが頷いて同じように席を立つ。
「あれって、今まで仕事せずに座ってたって事?」
二人揃って仲良く去るその背に向かい、経理の松村さんがぽつりと一言。
私もそう思ったけど、流石に口には出来なかった。
牧原さんも、今井さんも、私より20も年上だし……。
勤続20年を超える、松村さんにしか言えない科白。
「彼等にとっては、此処での書類整理は仕事の準備と後片付けという認識だからね」
同じく営業の河野さんが苦笑してそう答えた。
肩書きは、営業部長。とは言え、営業は4人しかいない。当然、河野さん自身も含んで。
営業を兼任しているのか、営業部長を兼任しているのか、此処で働いて7年経つけど未だにわからない。多分、後者だろうけどね。
ちなみに、会社創設時の3人の内の最後の1人。
「河野さんの教育の賜物?」
「ははは、松村さんには勝てませんよ」
「またまた~。褒めたって何にも出ないわよ~?」
「お世辞じゃないよ。そうだよね、三石さん?」
急に話を振られて、パソコンと睨めっこしてた朋美が顔を上げた。
「そうですね。河野さんは、教え方がとても上手ですし、よく面倒を見てくれますし。仕事以外の相談まで乗ってくれたりとか、頼りにもなります」
朗らかな笑顔で頷いた。
朋美は、私と同期入社。
他社で2年勤めた後の再就職で、年は私より1歳上だったりするけど、元々高校の先輩で仲が良かったから、就職試験の時に顔を合わせてびっくりしたんだよね。
当時は朋美先輩って呼んでたんだけど、此処じゃ同期なんだから先輩いらないでしょって言われて、今は呼び捨て。
「あ~それ、違う違う。三石さんは教える事、特になかったから。即戦力ってこういうコを言うの、私も助かってるしね」
どうでもいいけど、総務と経理を同じ人が担当してる。
三石さんの前にも人はいたらしいけど、寿退社しちゃって、河野さん一人で大変だったらしい。
尤も、河野さん曰く、「社長に益永さんが手伝ってくれてね、昔取った杵柄とか言っちゃって。だからそう大変でもなかったよ」という事らしい。
周りで見てて大変だったんだろうな…。
本人に自覚ないだけで。
「即戦力と言えば、松浪さんもね。技術屋の豊島君もそうだけど、この時の入社社員はみんな上手く育ってくれてるよね」
って、いきなり河野さんがこっち向いた。
私と言えば、いつもの歓談をさておき、机に座って書類整理の続きをしてた訳で。
確かに聞き耳はしっかり立ててたけど、どうしてこっちに振るかな…?
「河野さん、褒めても何も出ません」
苦笑しての私の科白に、河野さんは本当に愉しそうな笑みを浮かべた。
「ほら、やっぱり。しっかり育ってるじゃないか」
「松村さんは、私にとっても頼りになりますし、かつ、見習う所が多々ある女性の先輩ですから」
さも当然というように肩を竦めて答えた私に、河野さんは高らかな笑い声を上げた。
「私を見習うなら、松浪さんもそろそろ結婚しないと」
「急に話題がそちらに飛びますか?」
「だって女性の特権よ? 結婚して、出産してって」
「いや、それはそうかもしれませんが…。私はまだまだ…」
「琳子は彼氏がいないから、結婚以前の問題かと思いますけど?」
「それ、フォローになってません」
「でも事実だし?」
「松浪さんなら彼氏の1人や2人、作ろうと思えば作れるでしょーに」
「無理です、松村さん。琳子に手を出そうものなら、屍の山が出来上がります」
普段の笑顔のままであっさりと不穏な事を口にした朋美の発言で、場が、再度氷河期に。
事実だけに私も反論出来ないんだけど…。
「さて、私も営業に出るとするかな」
お茶を綺麗に飲み干して、河野さんが立ち上がる。
普通に居辛くなったんだろうな…。
出来るなら私も逃げたい気分、この手の話題は正直、苦手。
「3人とも、話の続きは昼休みにでも回して、そろそろ仕事を再開した方がいいよ?」
入り口に立ってそんな事を言って、河野さんは扉の向こうへと姿を消した。
自分で話を振ってきたのに。
そもそも始めたのは、松村さんだけど…。
「逃げたね」
「そうですね」
「ま、河野さんの言う事も一理あるから。仕事しましょ」
「はい」
経理兼総務部の二人は、親子のように仲が良い。
趣味も似ているからなのか、外を歩いていて親子に間違えられた事があると聞いた事がある。
実際問題、近い将来そうなりそうだという噂が漂っているのが怖い所だ。
じゃなくて。
私も仕事に戻らないと。
「今日、帰りに病院に寄りますけれど、社長宛てに何かありましたら言って下さい」
それだけを伝えて、私は仕事に戻る。
やる事は山ほどあるし、整理しなければならない事もたくさんある。
何より。
今更になって気になるのは、益永さんの科白だ。
これまでを思えば、口に出さずとも、私が病院に寄るであろう事は簡単に予想が付いた筈なのに。
何故、わざわざ、告げる必要があったのか。
あれは確認の意図があったとしか思えない。
それはつまり、何か、私にとって重要な事があるから。
一瞬だけ不安が過ぎったが、目の前に集中する事にした。
全ては、仕事が終った後だ。
そうして、私は、後に、その不安が、気のせいではなくて。
本能が告げた、危険信号であったのを理解する事になる。
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※紹介欄は、進行状況によって増加します※
TOP
松浪 琳子 (まつなみ りんこ)
主人公。
26歳、女。
雪肌、漆黒に艶めく黒髪は肩を伝うように前下がりカット、二重なのに若干切れ長な目は知的アピール十分。
身長175センチ、体重53キロ、よく言えばスレンダーなクールビューティー。
勇者様?
斎賀 琥珀 (さいが こはく)
22歳、男。
ほどよく日に焼けた肌、赤く染め上げた短髪、いたずらっぽさを残す黒眼、少し童顔のはっちゃけ青年。
身長175センチ、体重58キロ、顔と体型の割に暴れるくらいは筋肉付いてる健康不良児。
▼ 神聖レシル王国
リエ=ナセレイタ
20歳、女。
健康的な美白肌、柔らかウェーブのふわふわ茶系金髪、大きくて鮮やかな蒼眼、お人形のような美少女。
見ため通りに、ちっさくて可愛い仔犬そのものな、侍女巫女。
ラッセル=アルベッキーノ
48歳、男。
病的に青白い肌、肩より少し長い白髪、薄くて白に近いスカイブルーの瞳、虚弱体質そうな風貌の宰相。
マナムー=テットン
29歳、男。
健康そうな肌色、短く刈り上げられた赤茶髪、焦げ茶色の優しそうな瞳、の柔和な青年。
神殿に使える、第2位の神官。住民警護任務を兼ねる。
▼ エオルの里
ガゼル=エレイオラ
年齢不詳、男。
浅黒い肌、漆黒の髪、白金の眼、少し耳が尖っている、額に縦長の黒い第三の眼を持つ。出し入れ自由の黒の蝙蝠羽根があるが普段は室内の生活では邪魔なので滅多に出ない。
魔王様。でも魔族の王様に非ずという謎。
ゲッテ=ヨムイ
243歳、男。
若干青白い肌、白に近い銀髪、濃紫色の眼、少し耳が尖ってる。
髪をオールバックにぴっちり決めた黒いスーツ系ロマンスグレー。
ガゼルがふらりと来るまでは魔王代行をしていた。
先代の頃からの魔王付侍従兼秘書兼対ガゼル教育係。
キイラ=サビサー
134歳、男。
茶褐色の肌、紺混じりの黒髪、青緑色の眼。
軽い脳みそ筋肉系30前後の人間にしか見えない、利己的魔族。
“エオルの里”のキィ先生。
▼ 「(有)サイガ」関連
斎賀 京一郎 (さいが きょういちろう)
「(有)サイガ」の創設者。元社長、今会長、後に楽隠居の予定。
琳子、琥珀、それぞれの父方の祖父。実家の寺を継がずに好きな事をやってしまったアウトロー。
斎賀 竜馬 (さいが たつま)
「斎寺」の住職。祖父から受け継いだ。
京一郎の息子にして、琥珀の父。←この二人の思考があまりにも子供っぽぃのが悩みの種。
斎賀 一葉 (さいが かずは)
「斎寺」の跡取。現在、他所の寺で修行中。
琥珀の兄。既婚者で「斎寺」に妻(美里/みさと)がいるため週に一度は帰ってくる。
益永 和彦 (ますなが かずひこ)
「(有)サイガ」の社員。元秘書。
会社設立時のメンバー。現在は秘書の任を降りて、昔のように状況に応じて各部署を手伝っている。
河野 等 (こうの ひとし)
「(有)サイガ」の社員。営業部長。
会社設立時のメンバー。部長なのに、現在進行形で営業周りがメイン業務である。
松村 嘉子 (まつむら よしこ)
「(有)サイガ」の社員。総務と経理を担当。
直に勤続30年に届く、唯一の女性。(有)サイガの肝っ玉母さん的存在。
三石 朋美 (みついし ともみ)
「(有)サイガ」の社員。総務と経理を担当。
琳子と同期入社だが、高校時代の先輩でもある。松村と妙に仲が良く、近々親子(嫁と姑)になると噂あり。
牧原 亮太 (まきはら りょうた)
「(有)サイガ」の社員。営業。
出社しタイムカードを打刻すると営業周りに出かけ、夜になるまで帰ってこない。
今井 智人 (いまい ともひと)
「(有)サイガ」の社員。営業。
仕事のスタイルは牧原と同じだが、唯一違うのが、昼食は会社に戻って愛妻弁当なところ。
金窪 さやか (かなくぼ さやか)
「(有)サイガ」の社員。営業。
紅一点だが、仕事に関しては営業一の鬼。自宅近くのゲーセンでは、大半のゲームに名を残すゲーマー。
豊島 新吾 (とよしま しんご)
「(有)サイガ」の社員。技術屋(プログラマー)。
琳子と同期入社。ゲームCG担当だが、先輩にならって他部署も手伝う、ただのおもちゃ好き。
TOP
松浪 琳子 (まつなみ りんこ)
主人公。
26歳、女。
雪肌、漆黒に艶めく黒髪は肩を伝うように前下がりカット、二重なのに若干切れ長な目は知的アピール十分。
身長175センチ、体重53キロ、よく言えばスレンダーなクールビューティー。
勇者様?
斎賀 琥珀 (さいが こはく)
22歳、男。
ほどよく日に焼けた肌、赤く染め上げた短髪、いたずらっぽさを残す黒眼、少し童顔のはっちゃけ青年。
身長175センチ、体重58キロ、顔と体型の割に暴れるくらいは筋肉付いてる健康不良児。
▼ 神聖レシル王国
リエ=ナセレイタ
20歳、女。
健康的な美白肌、柔らかウェーブのふわふわ茶系金髪、大きくて鮮やかな蒼眼、お人形のような美少女。
見ため通りに、ちっさくて可愛い仔犬そのものな、侍女巫女。
ラッセル=アルベッキーノ
48歳、男。
病的に青白い肌、肩より少し長い白髪、薄くて白に近いスカイブルーの瞳、虚弱体質そうな風貌の宰相。
マナムー=テットン
29歳、男。
健康そうな肌色、短く刈り上げられた赤茶髪、焦げ茶色の優しそうな瞳、の柔和な青年。
神殿に使える、第2位の神官。住民警護任務を兼ねる。
▼ エオルの里
ガゼル=エレイオラ
年齢不詳、男。
浅黒い肌、漆黒の髪、白金の眼、少し耳が尖っている、額に縦長の黒い第三の眼を持つ。出し入れ自由の黒の蝙蝠羽根があるが普段は室内の生活では邪魔なので滅多に出ない。
魔王様。でも魔族の王様に非ずという謎。
ゲッテ=ヨムイ
243歳、男。
若干青白い肌、白に近い銀髪、濃紫色の眼、少し耳が尖ってる。
髪をオールバックにぴっちり決めた黒いスーツ系ロマンスグレー。
ガゼルがふらりと来るまでは魔王代行をしていた。
先代の頃からの魔王付侍従兼秘書兼対ガゼル教育係。
キイラ=サビサー
134歳、男。
茶褐色の肌、紺混じりの黒髪、青緑色の眼。
軽い脳みそ筋肉系30前後の人間にしか見えない、利己的魔族。
“エオルの里”のキィ先生。
▼ 「(有)サイガ」関連
斎賀 京一郎 (さいが きょういちろう)
「(有)サイガ」の創設者。元社長、今会長、後に楽隠居の予定。
琳子、琥珀、それぞれの父方の祖父。実家の寺を継がずに好きな事をやってしまったアウトロー。
斎賀 竜馬 (さいが たつま)
「斎寺」の住職。祖父から受け継いだ。
京一郎の息子にして、琥珀の父。←この二人の思考があまりにも子供っぽぃのが悩みの種。
斎賀 一葉 (さいが かずは)
「斎寺」の跡取。現在、他所の寺で修行中。
琥珀の兄。既婚者で「斎寺」に妻(美里/みさと)がいるため週に一度は帰ってくる。
益永 和彦 (ますなが かずひこ)
「(有)サイガ」の社員。元秘書。
会社設立時のメンバー。現在は秘書の任を降りて、昔のように状況に応じて各部署を手伝っている。
河野 等 (こうの ひとし)
「(有)サイガ」の社員。営業部長。
会社設立時のメンバー。部長なのに、現在進行形で営業周りがメイン業務である。
松村 嘉子 (まつむら よしこ)
「(有)サイガ」の社員。総務と経理を担当。
直に勤続30年に届く、唯一の女性。(有)サイガの肝っ玉母さん的存在。
三石 朋美 (みついし ともみ)
「(有)サイガ」の社員。総務と経理を担当。
琳子と同期入社だが、高校時代の先輩でもある。松村と妙に仲が良く、近々親子(嫁と姑)になると噂あり。
牧原 亮太 (まきはら りょうた)
「(有)サイガ」の社員。営業。
出社しタイムカードを打刻すると営業周りに出かけ、夜になるまで帰ってこない。
今井 智人 (いまい ともひと)
「(有)サイガ」の社員。営業。
仕事のスタイルは牧原と同じだが、唯一違うのが、昼食は会社に戻って愛妻弁当なところ。
金窪 さやか (かなくぼ さやか)
「(有)サイガ」の社員。営業。
紅一点だが、仕事に関しては営業一の鬼。自宅近くのゲーセンでは、大半のゲームに名を残すゲーマー。
豊島 新吾 (とよしま しんご)
「(有)サイガ」の社員。技術屋(プログラマー)。
琳子と同期入社。ゲームCG担当だが、先輩にならって他部署も手伝う、ただのおもちゃ好き。